弓道

  
 
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武徳会は事業の1つとして各武道の統一を目指し(剣道の「大日本帝国剣道形」(後の日本剣道形)、大日本武徳会柔術形(大日本武徳会柔道形に改称。武徳会解散後は講道館の柔道形に統合)など)、弓道もまた射型統一を行う事になった。昭和8年(1933年)5 月に開催された全国範士・教士会の要請を受け、当時の著名な弓道家27名によって「弓道形調査委員会」が構成され、同年11月10日より3日間にわたり京都・武徳殿で喧々囂々の議論がなされた。射礼に関してはすんなり小笠原流に統一する事で決着するも、射形に関しては正面打起し・斜面打起しそれぞれを推す論者により白熱の議論となる。殆ど決裂の様相を呈していた最終日、九州の祝部範士の妥協案である正面打起し・斜面打起しの中間的方法を採用する事で一同は賛成を表明し、一応の決着を得た。

  • 弓構……正面にて取懸け、手の内をととのえ物見を定める。
  • 打起……正面より徐々に弓を押し開きつつ左斜めに打上げる。

昭和9年(1934年)11月「弓道要則」として正式に制定され、武徳会は全国に徹底させようとした。しかし、弓道界からは賛否続出、新聞・雑誌紙面上で大論争が展開され、議論沸騰、ついには「鵺的射法」とまで揶揄されるにいたる。昭和14年(1939年)年、厚生省が武徳会を接収して同じ名称をもって再出発した際に、再び射型改善の声が起こり、昭和16年(1941年)に宇野要三郎・武徳会弓道部々長が委員長となり「弓道教範」を作成する。そして、昭和19年(1944年)に「弓道教範制定委員会」の手により、「弓道要則」を認めながらも、従来の正面・斜面の両射法を認めることを承認するに至った。ただ、大東亜戦争の戦局も切迫しており、この「弓道教範」は普及徹底されることなく敗戦を迎え、連合国軍最高司令官総司令部により武徳会が強制的に解散させられ、多くの射手も公職追放されて自然消滅していった。



 
 


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